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幸せすぎるのも不幸だね

ただただ愛を叫ぶ場所

5年前に私が見たもの。



今日で地震が起きて5年。
なんとなく区切りがいい。だから、5年前の3月11日を思い出してみようと思う。




私は中学3年生だった。あの日の事は鮮明に思い出せる。理科の授業で川に化石を探しに行っていた。なんて言えばいいんだろう、川に降りるための細い、、、道?みたいな所をクラス全員が1列になって歩いていた。右は崖で左は畑。人1人がようやく通れる細い道。先生が先頭で私は2番目に居て。急に足元がふらついた。あ、倒れるって思って、そうか貧血ってこんな感じなんだなって変に冷静だった。倒れるけど川(崖)の方に落ちたくない、結構高いよここって思ってたら後ろの方から「地震だっ!!!!」という男の子の声が聞こえた。「え?」って思ったけどもうそこから次の1歩は踏み出せなかった。とてもじゃないけど立ってられない。約30人のクラスメイトが1列になったまま自然とその場で座った。先生は揺れに全然気付いてなくて普通にどんどん1人で歩き続けてた。逆にすっげー。揺れが収まっても、心はずっとゆらゆら揺れていた。歩けなくなるほどの地震なんて初めてだったし、なんだか怖かった。でも先生は大したことない、震度3だなとか言って授業を続けた。今思えばとんだ勘違いだけど、その時はあっけらかんとしている先生が頼もしかった。なんだ、大丈夫なんだなって少しずつ心も落ち着いた。授業時間が終わって、何事も無かったかのように学校に戻ると、学校近くの信号が全て止まっていた。あれ、なんだか嫌な予感がするって思ったけど、その時も先生は工事かなんかだろとか言って全然慌てなかった。その落ち着いた態度を見ていたら妙に安心してしまって「そっかぁ、大丈夫なんだなぁ」と私達は半ば思い込むように自分を安心させた。人間の鈍感さは、人を落ち着かせるんだなと後から思った。だって、学校に戻ったらそれはもう大パニック状態で、電気は付かない、暖房は付かない、電車も止まって帰れない、隣のクラスの人達は恐怖で教室の真ん中に固まっていた。石ころを持って笑いながら教室に向かう私達を彼らは冷たい目で見ていた。私達のクラスだけがかなり浮いていた。しばらくすると、緊急事態だという事で携帯の使用許可が出た。


そこからは情報がそれこそ津波のように襲ってきた。クラスをまとめるタイプの男の子が情報を次々に書いていく。黒板が字で埋まっていくのをぼーっと眺めてた。マグニチュード、震源地、電車の運行情報。色々な数字が書き出されていく。大変な事になった、と思ったけれどなんとなく現実感は湧いてこなかった。それより、自分が家に帰れるかどうかが私にとっては重要だった。結局、友達のお父さんが車で迎えに来てくれたけれど既に時刻は19時近かった。

地震が起こった時の様子は鮮明に思い出せるけれど、その後の記憶はふわふわしている。それでも、クラスのみんなの不安そうな声や顔、全然繋がらない電話、電気が付かないから暗くなる前に行こうと言って友達と行ったトイレ、親の迎えが到着するたびに校内に響き渡る放送、市の境目で停電している地域としていない地域がはっきり目に見えた事や、帰りの道が死ぬほど混んでいた事などはぼんやりと覚えている。全てが非日常的で、多分この日の事を私はずっと思い出していくんだろうなと思った。

結局その日、家に着いたのは23時。そしてそこで初めて津波の被害を知った。数ヶ月前に大きい画面に変わったテレビに、見たこともない景色が映っていた。こわくてこわくて、勝手に涙が出てきて泣きながらご飯を食べた。私が家に帰れるかどうかで悩んでいた時、波にのみ込まれた人がいるかと思うと耐えられなかった。



そんな2011年3月11日から今日で5年が経つ。
15歳だった私は20歳になった。
少なくとも私は、あの日以前と変わらぬ生活が出来ているし、アイドルというファンタジーを追いかける日々も続いている。普通の生活に感謝できるようになったのは、不便になったあの日々があるからだ。計画停電とか寒かったもん。暗闇の中ローストポーク作ったな、そういえば。電気が付くとありがたいし、温かいこたつに入れるのは嬉しいし、明るいキッチンでご飯作れる日々は偉大。偉大な日々を忘れずに生きていきたいね、忘れがちだからね。うん。10年後だって20年後だって思い出していきたいね。